燕の工業は
農民の副業から始まった?
燕産業は、江戸時代の初期(寛永年間)、農村の副業として始められた和釘の製造技術の導入に始まった、といわれています。度重なる信濃川の水害で困っていた農村の情況を改善するために、江戸から呼ばれた和釘職人の薦めで燕地域に広まりました。作られた和釘の大部分は江戸に運ばれ、元和年間(1615~1623)の江戸地震・大火には災害復旧に大きく貢献したといわれています。それ以降、江戸の数多くの大火によって釘の需要が増大し、著しく繁忙をきわめました。
銅器・ヤスリ・キセル・矢立の
生産のはじまり
元禄年間(1688~1703)に越後の間瀬銅山が開かれると、良質な銅を使い、燕では銅器の生産が行われました。銅器づくりは鎚起という、一枚の銅板を大小様々な金づちを用いて打ち延ばす技法で、継ぎ目のない銅器がつくられます。この技術は仙台の銅器職人によって燕にもたらされたといわれています。銅器とは別に、1700年頃から鋸の目立て用の道具としてヤスリの製造も始まり、また、キセル・矢立(旅行用筆)の生産も始まりました。
時代の変遷・需要の変化
幕末の開港により、西欧の洋釘が輸入され始めるのと同時に、日本国内でも洋釘の生産が始まりました。明治20年以降は洋釘が日本市場を席巻し、燕の和釘は消滅していきました。また、明治末期から大正初期にかけて生活様式や人々の好みにも変化が表れました。全盛期には全国一の生産地にまで発展したキセルは紙巻タバコへ、矢立は万年筆へと形を変えて大衆に広がりました。
材料の変化・産業の転換
需要の変化だけではなく、材料にも変化がありました。明治末期からアルミニウム製品が急速に広まり、さらに大正3年の第一次世界大戦により銅の価格が高騰しました。最盛期には30件以上あった業者も他産業への転換を余儀なくされ、その結果銅器産業は、花器・茶道具等の伝統工芸として継承されるに至り、時代の変遷により燕産業は大きな局面に立たされることとなったのです。
燕洋食器産業の始まり(その1)
洋食器の製造は、様々な金属加工の伝統の上で進められました。東京の金物問屋から金属洋食器の注文が入ったことが始まりです。燕の職人がフォークを試作してみたところ、その評判は悪くなく、次いでスプーンも製作されました。ナイフは、岐阜県の関市から刀鍛冶職人10人を呼び、ナイフの製造にも成功しました。これらの成功の影には、近世からの伝統的な伸銅・圧延・彫刻・研磨・鍍金などの加工技術の蓄積がありました。
燕洋食器産業の始まり(その2)
燕の金属洋食器は完全な輸出型地場産業として発展しましたが、太平洋戦争開戦後まもなく製造が禁止され、軍需産業への転換を余儀なくされました。敗戦後、戦災を被ることのなかった燕の金属洋食器工業は設備が残っており、比較的早く生産が再開されました。燕洋食器は、日本を占領していたアメリカ軍の注文を受けることで復活し、さらにステンレス洋食器の大量生産に成功しました。
燕洋食器産業の始まり(その3)
しかし、1959年のアメリカの輸出規制により燕は大きな打撃を受けますが、新たにヨーロッパの販路を開拓し、この危機を乗り越えました。その後、ニクソン・ショックやオイルショック、香港、台湾、韓国などの新たなライバル(NIES)の出現など、苦しい時期が続きました。しかし、国内需要の開拓や新たな輸出市場の開拓、ハウスウェア部門の発展などでこのピンチを乗り切っていきます。円高時には国内需要向けの安定した生産により、危機に歯止めをかけました。
金属ハウスウェア産業の誕生
危機を乗り越えてからは、新しい技術を導入し、燕洋食器は再度輸出型地場産業として発展し、国際的地位を築くに至ったのです。ステンレス加工技術の発達などから新製品開発に着手し、金属ハウスウェア産業が誕生しました。現在では国内の主要産地として、金属洋食器とともに全国生産額の約9割を占めています。
現在の燕産地
燕産業の歴史とは「業種転換の歴史」と言われるほどに、それぞれの時代の需要に応じてさまざまな製品を生産し、販売してきた歴史があります。現在では、優秀な金属加工の技術を生かし、半導体、液晶、医療機器、自動車、航空宇宙などに欠かせない部品を製造し、世界のものづくりを陰から支えています。
HISTORY OF TSUBAME